壁にぶち当たる重要性

災害があることは、困ることではあるのだけど、災害があることによって、色々な対策を取るようになり、次に災害が起きた時には、被害を抑えることが出来る。

旭川にしても、明治、大正、昭和と、昔は水害が多い地域でしたが、治水工事などを進めて行ったことで、去年水害があったものの、それでも昔のような水害は起こらなくなった。

北海道胆振東部地震にしても、それが起こったことによって、道内の電力需要の約半分を担っていた、苫東厚真(とまとうあつま)火力発電所一つに、電力供給を過度に頼っていた、「集中電源」の問題があらわになり、その対策が進められるようになりました。

 

つまり何らかの失敗は、デメリットだけではなく、問題に気づき、対策を取るというメリットもあり、それがあることによって、進化していくことが出来る。

逆に言えば、進化のためには失敗が必要であるとも言えるし、そうした経験がなければ、問題に気づかなかったり、中々対策を取ろうとしない。

 

スポーツなんかを教えていても、勘違いしていたり、間違いに気づいていなかったり、ということはよくありますが、原因は色々あるものの、一つの原因は、大きな失敗、また壁にぶち当たっていないことにある。

だから失敗をしている、間違っているとは思わないし、新たな対策を取ろうとしない。

そのことを考えれば、もっと失敗や壁にぶち当たることが、必要なのではないかと思うのです。

 

たとえば怪我をしたり、痛めたりすれば、それを治そうと考えたり、もっと正しい方法を知ろうとなれば、揺らぎ整体に行ってみようと考えてくれたりする。

しかし何もなく、特に困っていなければ、余程の人でもなければ、今の延長のまま続けていくことになるでしょう。そうするとプロになるみたいな、大きな夢はかなわない。

病気でも、サイレントキラーと呼ばれるように、痛みのない病気は怖いとされているように、痛みは将来のことを考えれば、あった方がいいのです。

 

田舎なんかで少し上手くなると、「プロになれるかもしれない」と考えるのは、身近に凄い選手、大きな壁を目の当たりにしていないからです。

たとえば、もし同学年で同じチームに、サッカーの久保建英のような選手がいたとすれば、「プロになれるかもしれない」などとは、余り思わないでしょう。

また簡単にプロという言葉も、口に出来なくなったりします。

それでも「あいつは天才で絶対プロになるだろうけど、俺もプロになるんだ!」という人は、危機感を持って自分のどこが問題なのか、どうすればいいのかを真剣に考えるようになる。

 

天才であったとしても、壁があるから、益々成長して行くことが出来る。

大空翼にしたって、若林源三、三杉淳、日向小次郎など、多くのライバルたちの存在がいて、成長して行きました。

それがなければ、大空翼であっても、天才にはなれなかったかもしれない。

また天才にも壁があったのだから、凡人には当然ながら、もっと大きな壁があるはずで、それが無いと思っているのは、実際に壁が無いのではなく、壁が無いことに気づいていない、気づこうとしていないだけでしょう。

 

たとえば、「自分は凄い人間なんだ」、「自分は正しいんだ」と、思いたい、そういうことにしておきたいのであれば、それを否定するような情報があると、困ってしまいます。

だからそれを無かった事にしたり、よく確かめたりする事なく、頭ごなしに否定する。

 

宗教に入っている人に、

「あなたの入っている宗教は、どうもイカサマ宗教らしいですよ。だからやめた方がいいですよ」

何てことを言うと、止めるどころか、益々信じるようになりますが、宗教でなくても、間違っている人に間違っている事実を言えば、それが自分のアイデンティティーになっていると、自分自身が否定されることになるため、頑なに否定するものです。

 

それと同じように、「自分は上手く行っている」「自分がやっていることは正しい」「自分はプロになれる」と思っているなら、自分を否定するような情報があっては困るので、それがあったとしても、無かった事にする。

だから本当は壁があるのに、壁の存在に気づくことなく、間違いをやり続けることになる。

 

最近になって、ようやく体の使い方というのが、少し知られるようになりました。

体の使い方を極めたような人たちが、昔の武道の達人みたいな人ですね。

よく達人のような人をみて、「あんなのはインチキだ」と思ったりしますが、自分の延長上で考える為に、「そんな事は出来っこない」と考えますが、武道の達人は、一般の人の延長上、やり方ではなく、全く違うやり方、発想で行っている。

だから宮本武蔵にしても、達人だったのです。

 

普通の人がやるのは、筋トレみたいな強化ですよね?

だから質的変化を起こすことはなく、質のレベルが低い人はそのままだし、強化できるのは、その質の限界までです。

スポーツでも、強化しか考えませんが、確かに強化すれば、少しはパフォーマンスが上がるものの、プロなどの高いレベルにおいては、質が低い人が、どんなに強化しようとも、限界点が低いことは、高い質の存在を知っている人には、その将来が既に見えている。

 

さて、その体の使い方に取り組んできた、日本の昔ながらの武道、武術ですが、イメージするものほど、簡単なものではない。

「頭の悪い人には出来ないよ」と言われたりもしていて、それは自分を否定し、質を変えなければならないことと、閃きがいるためです。

人間は残念なことに、何十年経っても、同じ間違いを繰り返しますよね?

それは、何十年経っても、同じことをやって、自分が全く変わっていないからですが、それが無くなるためには、物事に対する考え方など、質的に自分が変わらなければならず、それがとても難しい。

体の使い方というのは、それの体バージョンなのです。

 

これが凄い人というのは、常に間違いや問題と向き合うみたいに、体の使い方の間違っている所、出来ない所に取り組んでいる。

またそれは、限界がないらしく、死ぬまであるもののようなのです。

たとえば合気道の達人、塩田剛三先生は、70過ぎて「最近少し合気道が分かって来た」と言っていたのだとか。

達人が70で少し分かったのなら、凡人など全く分からないですけどね。

 

しかし凡人程、「分かったぞだ」とか、「自分は出来ている」、「上手くなっている」と思う。

もちろん自分なりに出来た、と思うことは悪いことではないし、マリオで1-4のクッパを倒しやったーと思うのもいいでしょう。

問題なのは、そこで満足しちゃうことで、その先にあるものを知らない。

 

体の使い方というのは、常に、毎日、四六時中壁があって、

「なんでこんなことも出来ないんだ!」「いつになったら出来るんだ!」「本当に大丈夫なのだろうか」「一体どうやるんだ!誰か教えてくれ!」

といった感情がある。

 

だからそれが無いというのは、壁が無いということで、また質的変化がなく、その質で強化したり、テクニックを身に付けている。

もちろん強化も、ある程度のテクニックも必要になりますが、それを重視するあまり、質的に低下していくようなことをしていたとすれば、最終的にはプロみたいなレベルにはなれない。

質を上げるのは難しいですが、落ちるのは簡単ですからね。

筋トレなどよくよく考えてやらなければならないし、勝つことを重視した練習は、質を落とす原因です。

 

しかしもし壁があると言うのであれば、安易な考えから、より慎重に物事を考え、取り組む様になるでしょう。

質について、初めて考えさせられたりもする。

そうしたことを考えれば、一見嫌に思えるようなことも、実は非常にいいものでもあるし、それがあるからこそ、それを上手く利用することで、進化することが出来る。

 

壁というのは、一つの壁をクリアして、出来た出来たと満足して終わりではなく、ハードルの様に、常に次の壁、次の壁と用意されている。

人によっては、そこまでのクリアを目指さなくてもいいと思いますが、プロレベル、世界レベルを目指す人にとっては、クリアしたら直ぐ次の壁を探さなければならない。

オリンピックで金メダルとをったとしても、明日からは違う。それで満足して終わったのであれば、次はない。

同じように一つの壁をクリアしただけで満足したのなら、次のレベルには到達出来ない。

壁がある人が進化し、壁が無い人は進化できない。

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