危険を回避する簡単な方法が一つある。
それはあらかじめ危険に遭っておくこと。笑
煽り運転男に殴られた人がいましたが、恐らく、今まで喧嘩や叱られたりなどして、他人に殴られた経験がない。
殴られた経験が無かったため、殴られる危険を感じることが出来ず、回避出来なかった。
だからあの時、もし殴られるのを回避したかったのであれば、どこかで殴られておけば、恐らく回避出来た。笑
また逆に今回殴られて、危険を経験したので、次は回避出来るかもしれない。
「そしたら、結局殴られるんじゃないか!」
そんな回避の仕方は嫌だって?笑
であれば、違う方法を紹介しましょう。
それは、観察すること、歴史を学ぶこと、直観力を鍛えることです。
今回は観察することと、歴史を学ぶことの二つを、説明して行きます。
まずは観察することについて、
上の子とというのは、観察相手がいないので、自分が失敗して、実際に叱られることによって、「こうしたことはダメなんだな」と、経験するのに対し、
二人目以降は、失敗例を事前に見ることが出来るので、「なるほど。ああすると怒られるんだな」と、失敗を回避しやすい傾向にあります。
だから上の子よりは、下の子の方が要領がいいんです。
逆に言えば、要領の悪い人、ドジな人なんかは、余り観察する癖が無いのいのかもしれない。
あんまり言うと悪いですが、殴られた人も、少し要領悪い、ドジな感じですよね。もっと普段から観察して、
「こういうタイプの人はヤバい人だ」「あそこまでのタイプだと、何されるか分からないぞ」
となっていれば、もう少し回避出来たと思います。
また今の子供を見ていても、上の子に限った事ではありませんが、見ていて全然観察していないな、と感じたりすることもありますが、
今の時代は、何でも与えられたり、ゲームしたり、コミュニケーションを取ったりしないなど、昔と環境などがかなり違ってきたため、昔ほど観察しなくなっているようです。
だから平和なのはいいのだけど、平和ボケして危険な目に遭ったり、昔みたいに、言われる前にお茶を出す、といった事も出来なくなったんですね。
親であれば、誰しも子供の幸福や成功を願っていますが、そのためには観察が大事であるにも関わらず、一番身近であり、大事な子供の観察が、出来ていないことも多いものです。
親子関係が上手く行っていない一つの原因が、子供をよく観察していないことで、観察する以上に、自分の考えを押し付けてしまう為に、子供の発するサインに気づけていない。
逆に親子関係が上手く行っている所は、子供のことをよく見れているんじゃないかと思います。そのため何かあっても直ぐ、感じ取ることが出来る。
観察というのは、言葉を知っているから出来ているようにも思いますが、案外難しいもので、出来ていないものです。
また、「見る目が違う」「目の付け所が違う」と、言われたりすることもありますが、観察眼の様もなものが出来てくると、実際に普通の人と見ている所そのものが、全然違っていたりもする。
逆に言えば、観察眼がなければ、観察できるレベルはそれだけ低くなる。
セミナーで、サッカーをやっている子供のお母さんに、「ボールを蹴るつもりで、少し助走付けて思いっきり蹴ってみてください」と言うと、お母さんは全くのサッカー未経験者ですが、子供がサッカーをやっていることもあって、それらしく蹴っていました。
しかし、私にしたら、少し不自然に感じた。
というのは、まず蹴る前に少し考えた様子があり、その延長で蹴っていたので、何らかの思い込み、イメージで蹴っていたようだったのです。
私はそういうことも、よく見て観察している。
それをお母さんに確認すると、「そうです」という感じで、やはり当たっていたのですが、
「今度はそれを捨てて、自分の思うままにもう一回蹴ってみて下さい」
と言うと、今度は走りながら、トゥキックするかのような、いかにも初心者、不恰好、下手くそな感じの蹴り方をした。
普通だったら「なんだそれ!笑」と、なったりすると思いますが、私にしたら、そっちの方が正しい蹴り方、いい蹴り方なのです。
そこが見る目の違い、目の付け所の違い。
普通はまず間違いなく、最初のそれっぽいシュートの仕方が、「上手い!」と考えるし、指導者もまたそれを教えますが、それは何を見ているのかと言うと、形やテクニック的な所を見ている。
それに対し私は、そうしたものではなく、中身や本質といった所を見る。
だから見ている所が違う。
しかし殆どの人には、中身や本質が分からない為、形がそれっぽく出来ていた場合、「それはダメですね」何て言っても納得しないでしょう。
また見かけ上全然出来ていない人を、「こちらの人はいいですね」と言った時、何故そうなのかが、全く理解出来ないと思います。
私自身も高校の書道の時間で、先生が、「一回書いたら持ってきなさい」と言うので、仕方なく、どん詰まりになった下手くそな字を持って行きましたが、何故だか、「これはいい!」と、大賞だか、特賞だとか書かれたハンコを、「ポン!」「ポン!」と2個ぐらい押された。
その先生は、いい出来だとハンコを押してくれるのですが、それも2個ぐらい押してくれたのです。
しかし、高校生の私には、何故それが良かったのかが分からなかったのですが、それは私は字の形を見ていて、書道の先生は、形を見ていなかったのです。
それが後々になって、形以外の感性とか中身、本質ということが少しずつ分かるようになって来て、それが後になって分かった。
形やテクニック的なことは、誰でも見れば分かる事ですが、中身や本質は見る目がない限り、分からない。そのため殆どの人が一生懸命取り組むことが、形やテクニック的なことになってしまう。
それでは、その時はいいように思えても、必ず限界が来て、頭打ちになる。
だからやっていること、やろうとすること、考えている事が、プロと素人では、真逆であるため、その延長で努力し続けて行くと、雲泥の差になるのは当然のことなのです。
もちろん、誰であっても最初から見る目があって、目の付け所が違うと言うことは余りないですから、少しずつ観察する癖を付けて、観察力を養う。
そうすることによって、色んな情報が入って来るようになり、スポーツであれば、正しい努力、正しい方向に進むことが出来るし、危険を回避しやすくなる。
逆に観察していないと、上の子がまず実際に、自分が失敗して経験するように、実際に失敗を経験しなければ、分からなくなる。
ついでに、観察力、観察眼を付けるのに、絵とか習字とか、お手本をよく見るので、そうした習い事もいいです。右脳を鍛えるにもいいですね。
また習わなくても、スケッチの様によく見て絵を描いたりするのもいいし、「間違い絵探し」なんかも、ちょっとした訓練になるかもしれない。
次に、危険を回避するためのもう一つは、歴史を学ぶこと。
歴史の正しい勉強の仕方をしていないから、歴史を覚えることは、ただ年号を暗記するみたいな感じで思われていますが、過去の失敗を学ぶことによって、それを繰り返さずに済むから、歴史を学ぶ必要がある訳です。
それをしない限り、失敗を繰り返すことになるでしょう。
また成功例を学ぶことによって、成功パタンを学ぶことが出来るのも大事なことで、それがあらかじめ分かれば、大きな失敗をそれ程しなくて済む。
旭川(だけではありませんが)では、プロになっている人が殆どいないという歴史的事実があり、まずそれを受け止めなければならない。
頭では誰でもプロになる事は、狭き門だと言うことは誰でも分かっているのですが、受け止めきれていない為、本当の意味を分かっていないのです。
そのため、我流の方法、片手間(自分では本気)の努力で、通用すると思ったり、自分は出来ている、上手く行っているといった、過信、慢心、おごりが生じる。
プロ野球で言えば、プロになる確率は、0.1%よりも少ない数字ですが、それがどんなに難しいものであるかを、本当に分かっているのであれば、お金、時間、エネルギーの全てを注ぎ込み、また注意深く、前に進んで行かなければならないんじゃないかと思いますが、どうでしょうか?
しかし、人間自分は特別だと思いたい生き物で、「自分は行ける!」と思ってしまう。
しかし、一体それで何人の人が、同じことを考えて失敗して来たのだろうか。
本当に自分は違うのだろうか。
それを確認するために、プロを目指して失敗した人たちは、どういう人たちが失敗したのか。どこに原因があったのか、理由、違いは何なのか。
逆に成功した人は何が良かったのか。どう違っていたのかを、過去の歴史から、よくよく確かめなければならない。
確かに全国にでも行けば、凄いかのように思ったり、成功している様に思ったりすることはあると思います。
私にしても、全国大会何か行った事ないですから、凄いことだと思います。だから凄いと思うことは別にいいのですが、それとプロになれるということを、ごっちゃにしてはいけない。
過去のデータと照らし合わせれば分かるように、全国に行ったことは確かに凄いことではあるのだけど、全国に行ったからと言って、プロになれるとは限らないし、もっと言えば、全国に行った人でも、プロになれる人は、殆どいないのです。
だから決して、全国大会に行ったから、次はプロになれますと、エレベーター式に上がって行くものではないし、全国に行ったけど、その後伸びなくなった、低迷した、といったこともあります。
今が上手く行っているとして、自分は本当にそれに当てはまらないのか、または伸びなくなった選手は、一体どういう人だったのかをよくよく考える必要がある。
夢や目標がそれ程大きなものでなければ、多少の油断だったり、間違いがあっても、実現出来たりしますが、大きなものであればある程、一つの間違いが、取り返しのつかない事にもなるため、石橋を叩いて渡るように、念には念を入れ、細心の注意を払いながら、慎重に前に進む。
決して甘いものではない訳です。
そうした歴史と照らし合わせれば、実際に失敗して初めて経験するよりも前に、間違いに気づき、失敗危険といったものを回避しやすくなる。
逆にそれをしないと、「プロになれなかったかぁ」と、失敗を実際に経験してようやく気づく。
歴史を学ぶことは、客観的とも同じことですが、普通に過ごしていたのでは、主観を重視した考えになります。
生きている以上主観を持たなければ生活できませんが、それとは別に客観性がなければ、判断は鈍る。
審査員が第三者的な人でなければ、正当な判断をして貰いにくくなるのと同じです。
難しいのが、歴史を学んで照らし合わせるということにしても、そこに主観が入って、真実の歴史を見ることが出来ず、都合のいい所しか見なかったり、都合のいい解釈になってしまいがちな所です。
そのため一つの方法として、普段自分を主語にしても物事を考えますが、そうではなく、
イチローも同じことを考えるのかとか、一流の監督や先生も同じ考えを持つのかとか、そういう人たちだったら、どう考えるのだろうか、どう行動するのか、その考えや行動と自分のものとは、合っているのかどうか、
と、主語を変える。
成功者は肉体的才能に恵まれていたから成功したのではなく、それ以上に、成功する考え方を持っていて、その行動を取っていたからです。
だからそういう人たちと同じ考え、同じ行動を取れば、危険を回避し、成功する可能性は非常に高い。
もし天才だったら、どう考えるのか、こういう行動を取るのだろうかと、当てはめて考え、チェックしたりするのです。
それか、可能であればそうした人に聞く。観察力がある人、歴史を学んできた人の話を、「よく」聞くことです。
専門家から見れば、全然違うのに、「このまま行けばプロになれるかもしれない!」と思っていたりするのは、それは子育てしたのが、人生で初めてで、まだ失敗した経験がないからです。
これは上の子の原理と同じことで、失敗例を今まで一度も見たことが無く、失敗に気づくのは、実際に失敗してからになる。
またそれまでは、成功を信じて疑わないから、たとえ専門家が、「今のままではいけませんね」何て言っても、
「上手く行ってる!」「そんなのやってみなきゃ分かんないんじゃないか!」
となる。
確かに本人は、本人が考えている通り、経験がないからやってみないと、分からない。その考えは真実です。
しかし、経験豊富な人などにすれば、どんなに粋がろうとも、先が見える為、やらなくても分かってしまう。
これがもし芸能界でそんな粋がったこと言っていたら、経験豊富な美川さんに叱られる。笑
清水良太郎さんて、多分これで初めて見ましたが、面構えはいいもの持ってますね。
しかし美川さんのアドバイスから真摯に謝罪し、また「美川さんの言葉も無駄になってしまう」と、言いながらも、その後に捕まってますから、残念なものです。
美川さんがわざわざ大麻の話を、自分から切り出していたのは、マジだったからですが、結局分かっているようでも、本当の所が分かっていなかったのでしょうね。
ついでにこんなの。笑