客観的の本当の意味

客観的になりなさいなど言われたりしますが、客観的にというのは、どういういうことでしょうか?

辞書には、

「特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」

とあります。何となくは分かると思いますが、具体的に、はっきりと、また自分が使えるレベルでは、分かっていないかもしれません。

 

客観的に見るとは、たとえば自分に子供がいたとして、子供とは、全くの他人であるとして、見たり判断すること。

また、自分が客観的な判断が出来ているかどうかは、自分の子供が、全くの他人であったとしても、同じ判断になっているかどうかということです。


 

客観的になる難しさ


 

自分とは、今まで誰よりも一番付き合いが長いから、自分が一番自分のことを分かっているような気がする。

しかし付き合いが長い割に、自分を実際に見ることが出来ない様に、案外自分のことが、分かっていなかったりするものです。

 

自分に甘い人は、「これは仕方ないんだ!」「あの人は特別なんだ!」と、自分を説得したり、

逆に自分に厳しい人は、出来ている事でも、「自分は全然出来ていない!」と、出来ている自分を認めるようとしない。

自分に甘い人にしろ、厳しい人にしても、良くも悪くも、自分だけ特別扱いとなり、それは真実の自分を、素直に受け入れられてはいない、見ることが出来ていない、つまり客観的になれていない、ということです。

 

また、

「自分は頑張っている!」「絶対勝たなければならない!」「次こそは成功するんだ!」「周りに認めさせてやる!」

など、何かの思いを持っていると、冷静な自分ではなくなり、ギャンブルに熱くなるのと同じで、判断が鈍って、今の自分を見つめられなくなります。

思いが邪魔になるんです。

だから名医が手術をする時に、一々「絶対に治すぞ!」何ていう風には思いません。そんなのはドラマの話であって、感情的にならず、どちらかと言うと、淡々とこなす。

 

姿勢にしても、毎日見ているから、自分が一番分かっていそうなのに、中には酷い猫背をしていても、自分ではそれに気づかない人がいます。

体重もいつしか、気づいたら5キロ増えていた、10キロ増えていたなんてことがある。自分のことなのに、気づかない。他の人の方が気付いたりする。

 

それは、慣れ過ぎてしまって、そういうものだと思ってしまうのです。

長年続け、慣れ過ぎてしまうと、たとえ間違っていることであっても、それが当たり前、正しいことだと、分からなくなっていることも多くある。

 

子供のことにしても、特に自己評価の低い人に多いのですが、自分の子供を凄いことにしておけば、自分が凄いと感じたり、逆に自分の子供がダメだと、自分が否定されたように感じたりすることから、

「自分の子供は凄いんだ!」

という気持が生まれやすく、その気持ちが強いと、やり方が間違っていると言った、否定的なものは受け入れなくなります。

 

もちろん親にとって、子供は当然、特別な存在であるので、何らかの特別な感情を持つことは、ごく自然なことですが、余り熱を入れ過ぎて、それが行き過ぎてしまうと、客観性を失い、

モンスターペアレントみたいになったり、子供にプレッシャーをかけ過ぎて、親子関係が上手く行かなくなったり、成功できるものも出来なくなったりする。

 

そうしたようなことから考えれば分かるように、自分や自分の子供といった、自分に関する事には、どうしても判断が鈍くなり、間違いやすくなるのです。

だから意識的に、また時折でも客観性を持つようにすることで、自分の考え、判断の間違いに気づいたり、修正出来る様になる。

 

思いとは別に客観性を持つ


 

スポーツで言えば、自分の子供が凄いと思うことはいいのですが、もしプロになるという夢や目標があるのであれば、自分が凄いと思っている事とは別に、プロになる観点から、客観的に見て行く必要があります。

このスイカがおいしいとか、この芸人が凄いと思うといった個人の感想は、いいとか悪いとかではなく、自由に思っていいことで、それと同じように、他の人がどう思おうとも、自分の子供が凄いと思うことは自由。

ただそれと、プロになる事とは一緒にしてはいけないもので、プロになるという夢や目標があるのであれば、その観点からの客観的な判断が、別に必要だということです。

 

しかしその所が中々難しく、自分の子供は凄いと思いたい。凄いと思うことは、誰でも自由に思えるから、実際に自分の子供は凄いと思うようになり、そこから、

「このまま行けば、プロになれるかもしれない!」

みたいな、考えが生まれてくる。

 

その気持ちが強くなり過ぎると、それを否定するようなことを言われると、熱くなって、受け入れることが出来ず、

「この人は何てことを言うんだ!」「全然分かっていない!」「ドリームキラーだ!」「自分が正しいことを証明してやる!」

といったように、益々それをやり続けるようになる。

 

ただもちろん、実際に否定して来る人が間違っていたり、ドリームキラーであることもあるから、それがどっちなのかが分からない。分からないから、

「この人は夢に向かって頑張っているのに、何てことを言うんだ!」

と思ったりすることも別に問題ではなく、ただそこで客観的になって、確かめなければならない。

その結果、初めて答えが出てくる。

 

本物の客観性


 

客観的とは、既に説明したように、自分の子供が他人の子供であっても、同じように思うのかどうか、たとえば旭川に住んでいたとすれば、子供が全くの他人だとして、どこか本州など、他の地域でたまたま見かけた時に、

 

「おっ!この子は他の子と比べて、全然違うな!」

「才能、素質が凄い!」

「センスがあるぞ!」「将来性があるぞ!」

「この子だったら将来プロになるだろうな!」

 

みたいに思ったのであれば、本物でしょう。

しかし、他の優秀な選手たちの中に埋もれているような感じなら、子供を特別にひいきして見ていたことになる。

 

もしくは、プロに育てているような優秀な監督や先生が見ても、同じように「この子はプロになれるだろう」と、考えるかどうか。

もし自分が天才的であるならば、自分が正しく、優秀な監督や先生の判断の方が、間違っていることもありますが、プロになれる人は殆どいないし、天才となれば、それよりも更に少なくなる。

そのため確率論から言えば、普通前後ぐらいの人が大部分ですが、そうした場合、優秀な監督、先生と考えが違ったとすれば、自分の方が間違っている可能性が高い。

 

一般的に客観的に、上手くない、プロの指導者からも、プロは難しいと言う場合、落ち込んだり、諦めたりする。

それが嫌だから、客観的に見ないようにしたり、話しを聞き入れなかったりもするのですが、必ずしもそこでダメだとか、諦めろという話ではなく、現状を受け入れることによって、初めて前に進める訳で、

「現時点で客観的になれていませんよ」

「判断、やり方が間違っている可能性がありますよ」

というだけの話で、そこから正しい方法に変えればいいだけの話です。

 

もちろん、プロの世界では、間違いを長くやり続けてしまったり、変えるタイミングが遅くなり過ぎた場合は、厳しいですが、いずれにしても、いつ気付くか気づかないかの問題で、一生間違いに気づかない人、気づきたくない人もいますが、早く気付くことの方がいいかもしれない。

自分の間違いを認め、変えるより、死をも選ぶのが人間だったりもしますけどね。

 

それでも、いつまでもいい訳ばかり言っていては、何事も上手く行かないので、客観的になって考えることは、役に立つと思います。

本当のことを言われたりすれば、誰だって熱くなりますが、それが熱くなり過ぎたり、熱くなりっぱなしにならないよう、一度熱を冷まし、客観的になってみる。

そうすると、何か気づくことが出て来たり、いい方法が見つかったりすると思います。

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