苦しみに出くわした時

生活習慣などを何も変えようとせず、痛みだけをとって欲しいと言う考えは、その人の我儘でしか過ぎない。

相手の我儘に付き合うのは、商売的にはいいのかもしれませんが、本当は自分にとっても相手にとっても、よくないことです。

だからそういうものは、相手が自分で気づくまで、仏の様に見守ることが必要になる。

しかし見守ると言うのは難しく、人間は弱い生き物であるため、困っている人苦しんでいる人をみれば、助けてやりたくなる。

 

私は子供の頃病気で苦しみましたが、「苦しー、苦しー」、「劇薬でもいいから使ってくれ」、「早く助けてくれ」と、今思えば親を困らせていました。

親としては苦しんでいる子供をみたくない、苦しませたくない。かといって強い薬を使えば、副作用を伴うことになる。

自分の方が苦しんだような気はしますけど、親としても苦しかったでしょう。

以前紹介した横山友美佳さんを思い出します。

 

ただ今の自分の考えでは、何度か死ぬか生きるかの所まで行ったものの、そうじゃない時もあるので、死なないような時であれば、たとえ死にそうなぐらいに苦しい思いをしたとしても、劇薬まで使う必要はなかったと思っています。

そういう時、皆さんであればどうしますか?

またそうした経験はありますか?

特に今の若いお母さんなら、子供が苦しんでいるなら、劇薬だとしてもそれを使って、早く苦しみから解放させてあげようとするのではないかと思うのですが、

しかしそれは、子供の苦しみを取ってあげることが第一ではなく、本当は自分自身が、苦しみから早く解放されたいからなのかもしれない。

 

こうした場面は、子供が苦しんでいるから子供の問題の様にも思えますが、同時に親も試されているし、子供も親の行動を見ている。

また子供は親を試すために、死ぬほど苦しい思いをして試すこともある。

特に子供は精神的なものから病気になりやすいので、親に苦しみを分かって欲しくて、もしくはかまってもらいたくて病気をしたり怪我をする。

これは大人でもそうですが、病気というのはただの方便だったりもするのです。

 

私自身も助けてあげたいと言う気持ちのために、治してあげることが出来なかったことがあります。

苦しんでいるから何とかしてあげたいと、他の人よりも時間をかけて施術したり、説明したりもした。

体の痛みや問題は、難しい身体であっても、一回で全てを取り除くことは出来ませんが、施術で改善させていくことが出来ます。

しかしそれが却ってダメでした。

その人の為だと思ってやっていたことは、その人の為にはなっていなかったのです。

 

体というのは難しい。

痛みや症状があるから、それを取ればいいと言う問題ではない。体ではなく、その人そのものを見ていく必要がある。

しかしそれが出来なかったのは、自分の弱さが原因。

弱さがあれば、困っている人がいれば助けてあげたくなる。

もちろんそう思うこと自体、決して悪いことではありませんが、その気持ちに囚われてしまうと、本質を見失ってしまうこともある。

仏が同情しないというのは、そう言う事だと思います。