先週はスクールとはまた違う教え子たちとですが、山にあるキャンプ場でバーベキューをしました。
空気もよく、開放感があり、皆で、また放し飼いで育てている豚肉、農家をしている方の野菜、手作りジャムなども持って来てくれたりなどもあって、とてもおいしい。
夜は多少霧がかっていましたが、星も見れた。
バーベキューは久しぶりで、おいしく楽しいものでしたが、今回行ってみて、体の感覚がかなり鈍っていたことに気づきました。
生活の中に自然を取り入れた生活が出来ていればいいのですが、普通の生活はなんだかんだで便利で快適になっていて、自然の感覚が失われやすい。
またそれに慣れてしまうと、何とも思わなくなるのです。その結果ストレスを抱えたり、病気になったりもする。
草むしりしたり、畑仕事したり、公園に行ったり、山に行ったり、海に行ったりはいいですが、バーベキューも、自然の感覚を取り戻すのにいいですね。
山登りみたいに頑張らなくてもいいし。
面倒くさいと思う人もいるかもしれませんが、皆でやれば気にならない。
ただ今回バーベキューを行った場所は、家の前でも、都会の人だらけの川沿いではなく、人気が少ない山のキャンプ場。
と言っても人はいます。
家の庭や人だらけのバーベキューも悪くはないけど、人気の少なく、人工的なものが少ない方が、自然をより感じることが出来る。
例えば夜の山の中で明かりもなく人気がなかったら、ちょっと怖いですが、そうした孤独感みたいのが大事なのです。
絶対的に逆らえない自然の中に自分がいることによって、素直になる事が出来る。
どうしても自分という我があると、自分はこうだああだと、自然の流れを無視して、自分の考えや方法などを優先させ、またその中であがこうとしてしまいますが、絶対的な存在の前では、そんなものは無力である事がわかります。
それによって自然の流れに逆らうことなく、その流れの中でどうすべきなのかと考える様になる。
また孤独と言っても、家などで寂しく一人で過ごす孤独と、自然の中での孤独とはちょっと違って、家などでの孤独は、暗ければ電気を付ければいいし、暑ければエアコンを付けたり、暇ならテレビを見たり、スマホをしたり、酒を飲んだりと、自分の好き勝手なことが出来るのに対し、
自然の中の孤独は、自分の好き勝手な行動は死と直結するため、孤独でありながらも、自然に合わせて行かなければなりません。
もちろんバーベキューやった所でまず死にませんが、人工的なものから離れたバーベキューでは、少し自然の偉大さや絶対的な存在と触れる事が出来る。
「孤独は、知恵の最善の乳母である。」
ドイツの哲学者マックス・シュティルナー
バーベキューに参加した一人の女性は、ちょっと面白くて、試しに冬に家の庭にテントを張って寝たことがあったそうです。「それ、寒くないですか?」と聞いたら、「寒くて寝れませんでした」と言っていましたが、他人から見れば馬鹿げたようなことでも、学べることは多い。
ついでに言えば、自然に憧れて自然的な生活をする人がいますが、中には不自然な印象を受ける人もいる。
「私は自然という高級ブランドを身に付けています」
「あなたたちが分かっていない自然の価値を私は分かっています」
そんな感じで、どことなく不自然なのです。
自然を満喫しているというより、恐怖感、強迫観念を持っていたり、感覚よりも頭で考えている。
自然と触れ合う機会が減って行く中で、自然に憧れを持つことは自然なことですが、過度な憧れを持つ場合は、生活や社会と上手く行っていない事が多い。
またそこから自然的な生活、今までの生活と切り替えた生活を送る事で、変わる事も当然よくありますが、自然というブランドに甘える、すがる、依存するみたいな感じだと、自然と触れ合いながらも、自然と打ち解けることが出来ず、どこか不自然なのです。
あの人は私に何もしてくれない、自分はどうせこうなんだなど、自分の甘えによっておかしくなってしまうことはよくあります。
逆に甘えられない、甘え方が分からない、というのも自分という我があるからですが、そんな時は、表面的な自然ではなく、自然という絶対的な力を感じ、孤独を得るような体験をしてみることはいいことです。