茶碗が特盛になっていないか?

あるホテルに宿泊して朝食を食べていた時、ふと見ると40代ぐらいの女性の方だったと思いますが、ご飯茶碗に確か納豆を三パックかけていた。笑

納豆が好きなのか知らないけど、少しずつ食べればいいのに、どんぶり飯でもない普通の茶碗に、一片に三パックもかけたら、納豆がこぼれてしまうし、米も食えないでしょうに。

色んな人がいるものです。

 

禅の教えで、「茶碗を空にする」というのがありますが、スペースが無ければ何も入って来ない。

「教えてくれ、教えてくれ」といくら言った所で、その人が納豆を三パックかけているぐらいな状態であれば、こぼれるだけで何にも入って行かない訳です。

しかし本人にすれば、早く食いたいものだから、特盛になっている状態でも、更に乗せようとする。

 

また特盛まで行かなくても、三分の一ぐらいの量だったとする。だから三分の二は、入れるスペースがあります。

一応スペースがあるので、そこに注ぎ込むことは出来ますが、コップにメロンジュースが三分の一入っている状態で、オレンジジュースを注いでしまうと、味が変わってしまう。

本人にその自覚がなければ、「ほぅ、オレンジジュースと言うものは、こういう味なんですね」だとか、「このジュースは糞不味い!」と思ってしまう。

人によってオレンジジュースの好き嫌いや、体に合う合わないがありますが、しかしそれにしても、味が混ざったものであれば、同じ不味いでも意味が違うし、本当は好きだったかもしれない。

これと同じように、完全に自分を空に出来ない限り、本当のものは入って来なく、こぼれるか、自己解釈になってしまうのです。

また多くの場合は、特盛にしろ三分の一にしろ、自分が空にではないという自覚がない。

特に人の話を最後までよく聞かない人などは、特盛さんですね。

 

子供は大人に比べて吸収力が高く、大人はそれに比べて吸収力が低いですが、これは能力が低下したからではなく、子供は余計な知識や思い込み、プライドなどのものがないので、空であるためスポンジのような吸収力を持っている。

これに対し大人は、知識、思い込み、プライド、過去の栄光、恐れ、トラウマなど様々なものを持っていて、人によっては小っちゃい茶碗に、三パックの納豆を載せているみたいになっている。

それだけあれば、何も入らないし、才能などの能力の問題ではない。

またそれもメロンオレンジみたいになって、才能だからとか、仕方がないといった自己解釈をする。

 

何かを入れるためには、スペースが必要です。スペースがなければ入る隙間が無い。欲しいものがあるのであれば、まず先にそのスペースを確保しなければならないのです。

そのためには整理整頓し、断捨離など余計なものを捨てたり、余計な凝りや張り、歪みを取り除いたり、無駄なものを省いていく作業を行う必要がある。

そうしたことによって初めて、運でも知識でも技術でも新しい世界でも入ってくる。

 

最近では生前整理を言われる様になってきましたが、年を取ると、執着が強くなって、物を捨てられない傾向にあります。

日本人はもったいない精神もあって、執着ともったいない精神が似ているため、物を捨てられず増えたりしやすいのです。

吸収力が無いと思う人、変わりたいけど変わらない人の場合も、心に沢山抱えているものがありますが、それを一気になくすことは出来ないので、また心の問題を直で変えようとしても難しいので、まず少しずつ片づけをする、捨てられるものは捨てる、掃除をする、体の凝りや歪みを取るといったことを続けて行くと、心に抱えているものも少しずつ取れていく。

余分なものが無くなれば、そこにスペースが出来新しいものも入ってきます。

こうしたことからも、昨日説明したことが運気をアップさに繋がることが、少し分かって貰えたのではないかと思います。

折角年末も近づいてきましたから、心と体の片づけしていきましょう。

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