人は誰でも恐れを抱いている。
失敗の恐れ、変わる事の恐れ、変わらない事の恐れ、健康への恐れ、死への恐れなど、無数の恐れを抱えている。
恐れがあることによって、怪我を防止したり、子供を守ったりすることも出来るのですが、その反面、恐れが自分の成長を妨げることになる。
自分が否定された、攻撃されたと感じた時には、それから守ろうと無意識に防御態勢に入り、そのことによって、見えるものも見えなくなり、考えることも出来なくなり、結果間違いをやり続けてしまう。
私は頑張らない事を勧めたりしていますが、それは頑張ってしまうと、何らかのアドバイスを受けた時に、自分のやっていることが否定された、攻撃されていると考え、間違いを修正出来ず、間違いをやり続けることになるためです。
またそもそも頑張った所で、頑張らないやり方よりも、効果が低かったりもするので、だったら頑張る必要などなく、頑張る前に最初に正しい考え方や努力の仕方を学び、そこから一生懸命頑張るようにすれば、努力した分の結果が得られる。
「私はこんなに頑張っているのに」と言う人は多くいますが、もしそう思うのであれば、その頑張りを一切止めることです。それを止めることによって、全く無駄なことを頑張っていたことに気づき、本当に努力すべき道が見えてくる。
人間である以上間違いを犯さないことなどあり得ないのだから、間違う事は当たり前のことであり、能力が劣っているのでもない。それを頑なに、自分のやっていることが絶対に正しいはずだなどと考えると、自分で自分の首を絞めることで苦しくなり、恐れるようになる。
固く考えず、もっと楽に自分らしく行えば、恐れは減ってくる。
人より傷ついてきた人であれば、より大きな恐れを抱いています。
と言っても、必ずしも片隅で怯えているようなものではなく、虚勢を張って恐れを誤魔化していることもあるでしょう。
よく気の強い人は、気の弱いことの裏返しと言われたりしますが、気の弱い所をさらけ出したくないために、表面上気の強いように見せかけている訳です。
一般に気が弱ければ、色々な攻撃を受けることになりますが、逆に言えば、気が強ければ攻撃を受けなくて済み、それは攻撃から逃れるための行為でもあるとも言える。
だから最初から跳ねとばしておく、安全策を取る。
占いなどで、「絶対にそんなのは信じない」などと言う人程、はまると抜けられないのは、信じることが怖いから、最初からそれを否定し、跳ね返していたのが、その壁を乗り越えられた時には、丸裸の状態となってしまったために、逃れられなくなるのです。
柔軟性がない、思い込みが強いというのも、恐さの現われで、自分のこうだという考えを持つことで、自分を守っている。反対に恐れるものがなければ、一つの考えに固執することなく、柔軟に考えられる。
例えば収入が一つしかなければ、それに頼らざるを得ないから、仕事をクビになる事を恐れるでしょうし、
また何かの肩書きがあって、それを売りにしているのであれば、その頼りが無くなれば売れなくなるので、その肩書きが否定されたり、無くなることを恐れるはずです。
反対に自分とは関係の無い事柄には、どの話を信じようとも、自分が攻撃を受ける心配がないから、恐れを抱くことなく話を聞くことが出来る。
誰かから否定されたりなど、攻撃を何も受けていないにも関わらず、恐れを抱いたりすることも思います。
強面の人がいれば恐いと思いますし、フランケンシュタインみたいな人であれば、何されるかわからないと感じ、逃げ出したくなる。
そうした恐れを何故抱くかというと、それは自分の恐れを、その人に投影させているのです。
簡単に言えば、妄想や勘違い。
通信販売で商品を買えば、届くまで色々な想像を膨らませて、ワクワクするように、恐怖もそれと同じように、妄想が妄想を呼び、自分で恐怖におののくことになる。
そして、最近引き寄せの法則の動画を紹介しましたが、自分の恐れが鏡となって相手に反射し、またそれが自分に返ってくる。
それを「やっぱりあの人は悪い人なんだ」、とする。
よくDVを受けていたという女性の話を聞くと、確かに暴力を振るった男性は悪いと思いますが、自分から相手に暴力を振るわせるよう、無意識に誘導させている面も必ずあります。
何故ならもしその男性が、とにかく暴力的で性格もどうしようもないような人であるのなら、どんな人に対しても同じように暴力を振るうはずですが、そういう人は少なく、特定の人に対し暴力を振るうからです。
確かに女性であれば、男性より弱い存在ではありますが、同じ女性であっても、暴力を振るわれない女性もいるでしょう。
そこから考えると、「いいや私はそんなことはやっていません」と言っても、相手にそうさせている一面もあると考えられるのです。
畏敬の念を抱くという言葉があるように、神を目の前にすれば、誰しも一種の恐れを抱くことになると思います。それは誰にも言えない様な事など、全てを見抜かれていることが分かってしまう為です。
しかしそれを守ろう守ろうとすれば、恐怖に打ちのめされることになりますが、今の自分はこうなんだと認めることが出来れば、恐れが無くなり、恐らく愛に満たされることになる。
これは何も神様でなくても、恐れを抱いた時、自分はこうなんだと認めることが出来れば、恐れも次第になくなっていく。
よく緊張した時に、自分は緊張していないと思えば思うほど緊張し、緊張していることを認めれば、緊張が緩和されることと同じです。
また恐れを抱くのは、過去の記憶や想念からですが、そうした記憶を消していくことで、恐れもなくなり、逆にそうしたことをせず、見て見ぬふりをする、気づかぬふりをする、臭いものに蓋をするといったことでは、いつまでも苦しむことになる。
自分はこうだったんだな、こういう気持ちなんだな、そうしたことを理解して、認めてあげて、自分をゆるすことによって、そうした過去の記憶が次第に消えて無くなっていく。
日頃から愛に満たされていれば、過剰な恐れを抱くこともありませんが、残念ながら今の時代は、愛を失っています。その分恐怖などストレスを抱えることになっている。
しかしそうした世の中になっているとは言っても、愛を与えてくれる人は必ずいて、また生きている限り、あなたにも愛を与えてくれる人が現われる。
そんな時、本当に愛をくれるのかどうかを、試したくなったりする。
子供にしても親からの気持ちを引くために、頭をぶつけたりして命がけで気を引こうとするのですが、それと同じように相手を試して、本当に愛してくれるのかを試したくなる。
しかし、マタイによる福音書4-7には、
「あなたの神である主を試してはならない」
とあります。
あなたがそれを試したとして、自分の望むような結果が返ってこなければ、「ほらな、あなたも他の人と同じような人なんでしょ」となりますが、それは自分が恐れを抱いて、相手にそれが反射し、やっぱりこの人はこういう人なんだと、考えることと同じことです。
相手にどんなに相談しても納得しないこともあったりしますが、それは自分の気持ちを信じることを認めていないからで、まずそれをしないことには、どんなことも前には進めない。
そうすると愛を与えてくれる人が現われても、愛を受け取れなくなる。
愛を受け取るには、ただ愛を貰えば受けられるとは限らず、愛を受け取るレセプターがなければ、受け取れられません。愛を受け取るキャッチボールが上手くならなければならないし、愛を感じる感度を磨いていく必要がある。
それには被害者意識を捨て、今の自分はこうなんだなと認めること。自分の気持ちに気づかず、見て見ぬふり、知らぬふりをしていれば、いつまでも気が付けない。
またこの試すことにも関連しますが、八つ当たりすることは日常よくあることだと思います。
しかしよく考えてみれば、八つ当たりをする相手というのは、必ずいい人間に対して行うもので、日頃から苛めてくるような上司に対して、八つ当たりは絶対に行わない。
話を聞いてくれるような、優しい人に対して八つ当たりをする。
という事は、八つ当たりは自分の味方に対して行う行為、自分自身を攻撃する自虐行為になるので、それを続けていれば、自分の味方、本当に大事にすべき人を失ってしまう事、自分自身を傷つけることにもなってしまいます。
そのため八つ当たりは、十分気を付ける必要がある。
しかし八つ当たりは殆どの場合、自覚しているよりも、無自覚で行っていることの方が多く、そのため親にしても、「子供のために」と言いながら、子供に知らず知らずの内に、八つ当たりを行っている。
ではどうやったら八つ当たりをしない様になるかと言うと、それは感謝することです。
日頃から感謝する気持ちがあれば、八つ当たりはしなくなる。
自分の子供に対しても、常に感謝していれば、必ず色んな事が変わって来るし、八つ当たりなど出来なくなるのです。
また日頃からお世話になっている人がいれば、日々感謝していれば、道から外れずにすむ。基本というのは難しいから、必ずそれていくものですが、それでも感謝の気持ちを失わなければ、必ず基本に戻って来れる。
それを失うと、八つ当たりの世界、恐れの世界、頑張るけど結果が出ない世界の中で生きていかなければならなくなる。
また特に間違っている人間に攻撃するのならまだしも、正しい人間に対して攻撃を行った場合、それは全て、自分に跳ね返ってきます。
合気道を創った植芝盛平という方が、
合気とは、敵と闘い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ己を宇宙そのものと一致させることにある。
合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。
いかなる速攻で、敵がおそいかかっても、私は破れない。それは、私の技が敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。
敵が、「宇宙そのものである私」とあらそおうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。
そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。
合気道は、無抵抗主義である。無抵抗なるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気のある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。
ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?
それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往古来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。
「愛は争わない。」「愛には敵がない。」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。
これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(武を生み出すこと)ではない。
だから、武技を争って、勝ったり負けたりするのは真の武ではない。真の武はいかなる場合にも絶対不敗である。即ち絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。
勝つとは、己の心の中の「争う心」にうちかつことである。あたえられた自己の使命をなしとげることである。しかし、いかにその理論をむずかしく説いても、それを実行しなければ、その人はただの人間にすぎない。
合気道は、これを実行してはじめて偉大な力が加わり、大自然そのものに一致することができるのである。
と言っています。
合気道は愛の武道とも言われていますが、正しい人に対し攻撃を仕掛けた場合、それと同じだけの力が、自分に跳ね返ってきてしまうのです。
長年悩みを抱えている、体の問題を抱えているという人は、自分ではそれを変えたいと思いつつも、同時に無意識に悩みが解決することを恐れています。
これは既に説明したように、収入源が一つしかなければ、その仕事を失うことが恐いように、また肩書きに頼っていれば、それが無くなることが恐いように、同じように悩みが無くなる事も恐いのです。
つまり悩みがあることが、その人にとってのアイデンティティーになっている。
悩みがあることで、愚痴を話して、会話が出来ると考えている親もいるでしょう。
そうしたものも手放していかないと、いくら症状を変えてもイタチごっこになって、次から次へと問題を起こすことになる。
悩みの種がなくなっても、あなたらしくいれば、人は寄って来る。
何も恐れることなどない。
大丈夫です。