雰囲気と論理的説明

人はイメージ、もしくは雰囲気で判断している。

男性は女性に比べると論理的に考えますが、それでもイメージや雰囲気で判断するものです。

もしイメージや雰囲気で判断しないというのであれば、天才たちが論理的に説明した時に、それが正しければすんなり受け入れるはずですが、天才の考えはまず受け入れられません。

論理ではなく、自分の信じたいもの、思い込みや先入観のフィルターを持っていて判断しているためです。

 

「人間は正しいことを信じるのではなく、正しいと思いたいことを信じる」

チャールズ・ダーウィン

Darwin

 

この仕組みが分かっていれば、人を説得する時に、論理的に説明しても全く意味がないことが分かります。

それでも私は論理的に説明する。笑

何故なら説得する気が無いから。

 

私はスポーツのことなど、自分の考えの方が、一般の人よりも合っていることの方が多いのではないかと思ってはいますが、それでも神ではないので、間違っていることもあるかもしれない。

だから私の考えに対し、

「いや、そんなことはない、きっとこうなはずだ!」

と思う人がいた時に、「もしかしたらその人の方が正しいこともあるかもしれない」、と思ったりもするし、自分がそう思うというのであれば、それをやってみるというのが、人生なんじゃないかと思っていて、

またそれがたとえ間違っていたとしても、それを受け止めることで、得られるものもあり、人生という大きな枠の中で考えれば、一つの選択が正しいとか正しくないというのは、必ずしも大きな問題でもないかもしれない、とも思うのです。

 

たとえば誰だってテストで悪い点は取りたくはないでしょう。

だけどもし過去に悪い点を取ったことがあったとしても、今にしてみれば、「そんなこともあったかな」ぐらいに笑って済ませられることもあります。

それと同じで、何かあった時は嫌だなとは思いますし、そんなものは誰だって経験したくないものですが、それは一時的なものに過ぎず、逆にそれがあったからこそ、却ってレベルアップしたり、人生の糧にすることが出来たりする。

test

 

ある時、プロアスリートを目指している小学生が、親に連れられて来たことがありました。

体は膝が伸びなくなり、真っ直ぐに立っていられない程に歪んでいて、全身は当然バンバンのバンに張っていて、体の使い方も力みまくっていますし、完全にバランス力も失われている。

最初はプロを目指しているとは言われなかったので、「ゆっくりやっていったらいいですよ」といったアドバイスをしていましたが、数回の施術と指導を受けてから、ある時親の方から、「プロを目指している」と言われました。

 

しかし私の判断では、既に体がぼろ雑巾のようになっていて、またぼろ雑巾になるというのは、それ程に今までやっていたこと、考えが間違っていたということです。

それをもしプロを目指すというのであれば、180度方向転換させなければなりませんが、今までやってきたことを全て捨て、新しいものに取り組むということは難しい。

また、設計ミスに気づかず一生懸命建てた家を破壊し、基礎工事からもう一度作り直すということは、何もやっていない人が目指すよりも余程大変で、最初からやって来た人、また今からやる人などから比べれば、もう既に時間はない。

だからと言って、急に180度変えることは出来ませんが、少なくてもギアを上げて行かなければ、もう無理です。

タイムリミットは差し迫っている。

time limit

 

そんな中ある時、私はなるべく色んな可能性を持った方がいいと思っているので、選択肢の一つとして、「取り組んでいるスポーツを一切止めたことがいい」と、話したことがありました。

それを聞いて、「子供の好きなものを止めさせていいものだろうか」と言っていた。

またある時、もう時間がないので、「施術を受ける頻度をなるべく多くし、その他にもセミナーやスクールなどで勉強する方がいいです」とアドバイスした所、メールで「アドバイス頂き有難うございます」と返信を頂いて、それから一切来なくなった。笑

 

実はこれは私なりのテスト、プロになるための一つのセレクションのようなものという意味があって、そうしたアドバイスを行ったのです。

その人の現時点でのレベルで言えば、私のそのアドバイスを理解することは、確かに難しいのですが、プロの世界は甘いものじゃないので、常に決断力と行動力が求められる世界で、決断する力がなければ、プロの道はない。

もしそれがないのであれば、決断する必要のない違う道を目指した方がいいのです。

ただこれはあくまで私の考えであって、真実だとは限らないから、間違っているのかもしれません。

Geschftsmann muss sich bei einer Weg-Gabelung entscheiden

 

また相性などもあるので、膝が曲がり真っ直ぐに立てない程の歪みや、バンバンのバンに張っている体を、一流のような体に整えてくれる先生、プロになる体の使い方を教えてくれる先生、正しい練習法を教えてくれる先生、親がどういった考えを持つべきなのか、どういった育て方をしていけばいいのかを教えてくれる先生、

またそれら全てオールインワンで教えてくれる先生を、他にいい所を見つけることが出来るのであれば、そこでもいいと思っています。

だからもしかしたら、そうした先生を運よく東京かアメリカか、どこか分からないけど、見つけることが出来たのかもしれません。

 

ただ一つ思ったのは、子供は私の施術などを受けて、毎回とても喜んでくれていて、親もそれを分かっています。

そうしたことから、「子供の好きなものを止めさせていいものだろうか」と言っていたことでしたが、

「それを子供から取り上げるのはいいんだな」、

とか、

来なくなったことで、「これで子供のプロになる夢は完全に閉ざされたな」と私は考えたのですが、「それはいいんだな」と思ったのはあります。

 

このケースにおいても、論理的にプロになる道の方法論を説明していくというよりは、感情に訴えかけて、「きっと出来ますよ」、「プロになれますよ」という感じの説明の仕方をすれば、もっと受け入れやすかったと思います。

また受け入れて貰えるように努めれば、結果的に私の考えややり方に従うでしょうから、少なくても体は全く変わり、パフォーマンスはアップし、プロになる可能性も高まっていたでしょう。

だけどそうした方がいいのかどうかは、分からない。

 

この親子の場合で言うと、子供は素直でいい子だし、親も悪い人でもないのですが、私は、「この子はこの親のために生まれて来たんだな」と思いました。

前世だとか何だとかというのは分かりませんが、そんな風に感じたのです。

もしそうだとすると、その人にとってプロだとか何だとかというのは、それは一つの方便や手段であって、それ程重要なことではありません。

それよりも重要なことは、自分に気づくということなのです。

 

そうしたことから考えると、私が説得的に説明し、それによってプロになれたとしても、気づくという人生の目的を達成できていなければ、余り意味が無くなってしまいます。

それよりもちょっとした試練のようなものを経験し、自分に気づくということの方が、大事なのではないかとも思うのです。

私の考え過ぎなのかもしれませんけどね。

 

ただ私は数年前に、裁判員をやったことがあり、裁判官と裁判員で話し合いを行うのですが、その時に思ったことが、裁判官はともかく、説得力に長けている人が一人いれば、簡単に他の裁判員の考えを操作することが出来てしまう。

自分の説得力によって、他の人たちの考えを丸め込むことが出来たとすれば、ほぼ自分一人の力によって、その量刑を決定させたことになり、それが正しければいいんのですが、その責任は、自分で背負うことにもなってしまいます。

そうであるならば、自分に力があったとしても、自分の意見は意見として説明はするものの、後のことは他の人たちの判断に委ねた方がいいかもしれない、とも思うのです。

 

余り深くは考えず、情熱的になるのもいいと思うのですけどね。

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