釈迦の話はわからない

誰でも本質や真実を知りたいと思っている。しかしそれは顕在意識でそう思っているのであって、潜在意識では本質や真実を知りたいのではなく、多くの場合、自分が信じたいものを求めているに過ぎない。

そのため釈迦のように悟りを開いた人の話ですら、人は受け入れることは出来ない。

釈迦も悟りを開いた時、進んでその悟りの境地、真理の話をしようとは思わなかったそうです。

「私のさとったこの心理は深遠で、見難く、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。人々には、縁起と言う道理は見難い」

「またすべての形成作用のしずまること、すべての執著を捨て去ること、妄執の消滅、貧欲を離れること、止滅、やすらぎというこの道理もまた見難い。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労があるだけだ。わたしには憂慮があるだけだ」

 

多くの人は自分の考えを基準とします。そうではなく仏教的に言えば、法で考え、法をよりどころにする。

法とは人間の為すべきことわり、実践すべき理法、真理、自然の法則、天地の法則。

そうした物事の考え方に完全に切り替わると、全く違う世界、考え方を持てるようになります。

逆にそうした考え方を全く持てない人は、本質的なことは全く理解することは出来ない。

このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>