病気などすると、優しくして貰えたりするものです。
またそんなことから優しくしてくれたり、親切にしてくれたり、気遣ってくれる、注目してくれることが当然の権利の様に思ったり、自分に甘えてしまったりもする。
「昨日3時間しか寝てねぇ!」のようなことを言って、周りから注目を集めようとするのと似ています。
もちろん病気をした時など、誰だってたまには甘えたくなることもあるし、体と一緒に心も弱るので、かまって貰いたい。
しかし、いっつも忙しくしている人が、たまには休んだり、遊んだり、息抜きしたりした方がいいように、たまには甘えてみることもいいと思いますが、それに味をしめて、また便乗値上げをするかの様に、ついでに色んなことを要求するようになったりしてしまう事は問題です。
また看病する側の人が気の優しい人であれば、病気をしているから大変だ、かわいそうだと思って、そうしたことも許してしまいますが、そうなると、病気は治らないし、看病する人も苦しくなる。
丸岡いずみさんが鬱になって苦しんでいた時、実家に戻って、「死ぬ~」みたいなことを言って苦しんでいると、お母さんは、「そぉ?大変ねぇ~」と答えていたと言います。
これは凄く上手い看病の仕方。
一般的にはこうした感じだと「薄情なやつだ」みたいに思われますが、このお母さんがいなかったら、もしくは「大丈夫?」のように真剣に心配したような看病の仕方では、もっと酷くなって、よくならなかったかもしれません。
日本人は生真面目なので、看病をするのも真面目で一生懸命な看病をしたりしますが、真面目なこと自体はいいのですが、相手の我儘を許したり、過度に心配したり手をかけてしまうと、かえって治らなくなる。
また一生懸命看病していると、目的は早く治って貰うことにあるはずなのに、次第に一生懸命看病する事が、一番の目的にすり変わりやすい。
何でも同じことが言えますが、スポーツに例えると強くなること、高いパフォーマンスを発揮できること、大会で結果を出すこと、プロを目指すこと、人格形成に役立たせること、といった当初の目的が、練習をしている内にいつの間にか「頑張りさえすればいいんだ」など、違うものに目的がすり替わってしまう。
筋トレにしても、最初はパフォーマンスを上げるために行っていたものが、バーベルを挙げるための目的に変わっていたり、練習のための練習になっていたりする事は多いでしょう。
すり替わってしまうと、自分では正しいことをやっているという思いもあって、パフォーマンスを逆に落としていたり、怪我して酷い体になっていたり、人格形成に全く役立っていないことに気づかないのです。
看病もそれと同じで、看病の方法など習ったことが無いので、分からないのも当たり前ですが、「看病」という名前のつくものをやりさえすればいい、頑張って一生懸命やればいい、というものではなく、
看病によっては早くよくなる看病もあれば、一生治らせないようにする看病もあり、あんまり一生懸命看病したりすると、当初の目的からすり替わってしまっていることがあり、看病一つも、中々難しいものです。
特に何か心理的な問題を抱えていたりすると、一生懸命看病することによってそれを埋めようとししますが、それでは相手も治らなくなるし、自分も疲れ果てることになって上手く行かない。
また苦しんでいる人を目の前にしたら、パニックを起こすのが普通で、思考は停止します。
少なくても思考力が低下し、パフォーマンスが低下するので、冷静な判断、自分なりの最高な看病が出来なくなるものです。
私もある時、胃だと思いますが、お腹が痛くなって、うんうん苦しんでいたら、「病院に行きなさい」と言われ、普段であれば病院なんか行かないのに、思考が停止しているものだから、それに従ってしまい病院に行った。
しかし病院に行って診察を受けてみると、苦しみながらもその医者が何故か無駄にえばっている事が気になる。笑
もしかしたら他の人には、それ程気にならないものだったかもしれませんが、医者の心理状態が、ニュートラルな状態ではないと感じたので、不自然なものに違和感を感じた訳です。
だからもしその医者の治療を受けたとすれば、余計におかしくなる危険性が高い。
そこから苦しみながらも、私の思考は苦しみから、「この人なんでえばっているんだろ」と言う全く別の方向に行き、この医者は信用できないと感じて帰りました。
ちなみに護身術に興味ある人って多いですが、暴漢に襲われる危険性は、一生に一度あるかないかぐらいの可能性ですが、病院に行くことであれば、多い人なら年に数回は行くことがあるぐらい身近なことです。
しかし大抵の人は、病院や医者に安心しきっていますが、寿命を削り取られる危険性が高いのは医者なんです。
もちろん医者の全てがダメだというのではなく、医者を選ぶ力がなければ、合法的に殺されてしまう危険性もありうるということで、まず身近で可能性の高いものから身を守るというのが、必要な護身術だと思います。
そもそも何度も言うように、手首持たれてそれを外した所で何の意味もない。
暴漢に襲われたらどうするか、ということだけが護身術なのではなく、体がこうなった場合どうするか、ならない為にはどうするか、といったことも自分の身を守るための立派な護身術。
だから整体を受けることや、整体的なことを勉強することも護身術の一つで、そうしたことを何もしていない人は、医者のいいなり、製薬会社のいいカモになってしまう。
ただ体に何か不調があった時には、自分では治せないでしょうから病院に行って下さい。
話を戻して、私はそのダメ医者に出会えたお蔭で、「自分は一体何をやっているんだ」と冷静になることができ、家帰って自分で治しました。笑
ちなみに後からたまたま医学生から話を聞いて、その医者は内視鏡検査の検査数が、日本で一番だったとか。
それでえばっていた理由が分かりましたが、「そんなの無駄な検査を日本で一番していたということで、逆に恥ずかしいことだろ」、「ダメ医者だということがばれているだろ」と思いましたが、そういう医者を求める患者もいるし、その医者にとっては、大事なことのようです。
内視鏡検査の神がいるみたいな感じで、「私も検査受けたい!」、「私も!」と、日本中から集まってくるというのなら、検査数が多いのも分かりますが、そうでないのにただ検査数が多いというのは、ただ検査しているに過ぎないですからね。
しかし人の考えはそれぞれなので、後は個人の判断です。
ただもし不必要な検査であるのであれば、体に少なからず負担をかけるし、心理的な負担もかかるかもしれない。
もちろん医療費は無駄遣いだし、一番気を付けなければならないのは、その検査に過信しているために、それに映らなければ、他の重大な病気を見過ごす危険があるのです。
これが一番怖い。
話が少し反れましたが、苦しんだり何かあった時は、思考が停止してしまい、看病にしてもそれは同じ。
助けてあげたい、楽にしてあげたいという気持ちは、誰だってあると思いますが、パフォーマンスが最も高い状態というのは、ニュートラルな状態で、何かしてあげたいなどと考えている時は、パフォーマンスが低下し、冷静な判断が出来ません。
何事もそういう時は、一旦落ち着かなければならない。
努力感のある努力は、大した結果を出せない事が多いですが、看病にしても、もしかしたらやった感のある看病よりは、丸岡いずみさんのお母さんの様に、一見すると看病していないような看病が、いい看病かもしれません。
整体でも私の施術は外から見ても、効いているように見えないし、やっている感じがしません。逆に生徒さんたちの方がやっている感じ、頑張っている感じがして、効く様に見えたりする。
しかし実際には逆なのです。
スポーツの努力もそうであることから考えても、ただ一生懸命やる看病というのは、少し考える必要があります。
だけど、後から文句言われる可能性はあり。笑
丸岡いずみさんとまたお母さんとの関係性があったからこそ、後からあれが良かったと思えたことですが、一般的には、
「あの時、あの人は何にもしてくれなかった!」
と思われることの方が多いでしょう。
そういう人には、こっちが全部してあげて、おいしいお菓子でも買ってあげましょう。
冗談ですよ!
逆にもし自分が病気をした時、「あの人は何もしてくれなかった」なんて思ったとすれば、それがあったからこそ、自分は早くよくなったと考えればいいかもしれないですね。
看病っぽいことをしてくれたけど治らなかったよりは、早くよくなる事の方が大事なはずです。
本来の目的を見失ってはいけない。
それと自分が病気になってしまった時には、ちょっと甘えてしまうというのはいいのだけど、ついでに便乗値上げみたいにしてしまうことは、我儘になって、治りが悪くなります。
病人だから何やっても許されるとか、当然の権利な訳ではなく、病人でありながらも自立する。
自分では意識していなくても、「私は大病様だぞ!」という雰囲気が出ていたりする。
今の日本は建前がブームですけど、それに流されて、表面的なことを無駄に頑張ってしまうとおかしくなりますから、一旦立ち止まって周りを見たり、冷静になって見たり、リラックスしたり、一番重要な目的は何かを確認したりするようにすれば、何でもなんとかなるもんじゃないでしょうか。