幸せ、チャンス、幸運を受け入れる難しさ

親切にしたけど拒否する人がいると言えば、「私だったら親切にされれば、絶対受け入れますよ」と思うものですが、これは中々難しい問題で、心に余裕がある人でなければ、親切を受け入れることは難しい。

何故なら最初の段階では、それが親切なのか、何かの悪だくみなのかなど、分からないためです。

今まで受け入れて来たことによって、上手く行った経験のある人であれば、それを受け入れる可能性が高く、また経験が豊富な人や、器の大きい人、何かがあっても、それに対処するだけの自信がある人であれば、受け入れたりするでしょう。

しかし反対に、過去に騙されたり、自分が好きではないものを押し付けられたりして来た人は、また同じことをやられると思って、それが親切なのか、そうではないものなのかの判断をすることなく、最初の段階で受け入れを拒否する。

 

例えば私が折角スポーツのアドバイスをしたとしても、私ほどの知識や経験がないにも拘らず、受け入れられるとは限りません。

自分のやり方や考え方があったりするからです。

しかし、もし私ほどの知識や経験などがない人が、そのアドバイスを無視し、それとは真逆の方へと進んだとすれば、チャンスを不意にし、自ら破滅の道に進んで行くことになる。

自分が勝手に破滅の道を選んで進むことは、自己責任の問題で、別に構わない事かもしれませんが、親が子供に破滅の道を進まさせてしまったりもする。

 

スポーツの話は、スポーツとは関係の無い世界の人に話をすると、受け入れて貰えます。

何故なら自分の考えを否定される恐れもなく、また本質的な話をしていて、間違ったことを言っていないからです。

例えば、

「物事全てには長所と短所、メリットとデメリットがあるように、筋トレにもそれがある。また重要なのはパフォーマンスを上げることで、筋トレは絶対条件ではない。

つまりパフォーマンスを上げることが、一番上に位置し、筋トレはその下であり、そのため筋トレ以外にも、もしパフォーマンスを効果的に上げる方法があるとすれば、その方法を選ぶべきだ」、

と言う話は、本質的な話で間違いではないと思うのです。もし本質的に間違っていたとすれば、受け入れては貰えないでしょう。

 

しかし思い込みの激しい人や、筋トレ信者のような人には、そうした話は受け入れられません。

また別に一生筋トレするなとか、筋トレは絶対してはいけない、筋トレは絶対に悪いものだ、などの話をしているのではないのですが、大親友の筋トレを否定されたことで、自尊心を傷つけれたたことにより、それに囚われ拡大解釈や自己解釈をしてしまう。

茶碗が空になっていなければ、新しいものが入って行かない、と言いますが、既にメロンソーダが入っている中に、緑茶でも注げば、全然違う味になる訳で、

それを「こんなもの飲めたもんじゃない!」というようになってしまい、それは一部は緑茶なのかもしれないけど、全然緑茶ではないのです。

 

話を受け入れることが出来るためには、茶碗の話の様に、スペースがなければ、受け入れることが出来ません。

器の大きい人とは、そうしたスペースがある人です。

スポーツとは関係ない世界にいる人は、そこの知識や思いなど、特に何もないから、スペースが空いているため、情報を受け入れることが出来ます。

しかしスポーツのことで、一生懸命になっている人には、自分の努力や考えで、スペースが無くなり、そこに新しいものを入れることは出来なくなる。

もしそうした人に、何かを受け入れさせるには、一旦遠回りして一手間かける必要があり、そのために喩えを使ったり、キリストがとか、釈迦がとか、イチローがこう言っていた、といった何らかの媒体が必要になる。

 

誰だって親切にされたい、幸せ、チャンス、運を手に入れたいと思うものですが、こうしたようにいいものであっても、受け入れることは案外難しく、実は自分でそれを拒否していたりします。

私の整体スクールに来てから、人生が大きく変わったある人は、ある時、「変わり過ぎて怖い」と、言って来たこともありましたが、誰でも不幸な人生から幸福な人生に変わりたいのに、それが同時に怖かったりもする。

「変わるように教えているのだから、変わることは当たり前だよ」といった話をすると、受け入れることが出来たようですが、よくなることでも受け入れがたい。

例えば信号が今日だけ青ばっかりだったら、何か悪いことの前触れかのように思ってしまう事がありますよね。日本人はいい事があっても、悪いことに結びつけて考える傾向にあります。

 

特に自信やプライド、不安などが強くあれば、聞き入れたり受け入れることは出来ません。

もしそうすれば、自分はダメな人間、弱い人間、間違ったことをやっていることを自覚し、自分を否定しなければならなくなる。

中年のおじさんなどは、頭の固いオヤジが多いですが、それも今更自分の考えや、今までのやり方を否定するようなことをすれば、出来ない自分であることが分かってしまう為、それが怖いために、またそれを知りたくないために、頑なに頑固になって武装するのです。

気の強さは、気の弱さの裏返しでもある。

以前ブログで「自信を持つな」と言ったことがありましたが、それは殆どの自信は、本物の自信ではなく、ただ不安を隠しているだけで、その不安を隠すために、受け入れを拒否することになるためです。

そうなれば自分が成長することや変わる事もなくなり、間違いをやり続け、いいものは入らなく、悪いものだけが入る悪循環にもなりやすい。

もし本当に自信があり、実力があるのであれば、どんなものでも受け入れることが出来る。それが本当の自信でしょう。

 

またもし何かアドバイスのようなものをして、それを聞き入れて貰えなかったりしたら、その人には、段々と何も話さなくなっていきます。

子供が親と話をしてくれないのもよくあることですが、それは自分の考えが強すぎて、親が子供の意思を無視して、話を全く聞き入れてこなかったからです。

自分が凄いと思いたい人は、誰かに教えられると自分には実力が無いと考えてしまう為に、教えられることを避けたりすることがありますが、そういう人には教えなくもなるし、教わる人も勉強するチャンスや、成長するチャンスを失う。

 

しかし面白いもので、出来ない人のアドバイスは受け入れたりする。

出来る人と出来ない人は、水と油のような関係で、それぞれがお互い合うのでしょう。

もう少し言えば、出来ない人のアドバイスは、どうでもいいアドバイスであるため、それを受け入れても、自分には支障がないのです。だからそれは受け入れられる。

逆に出来る人のアドバイスは、重要な所、変えるべき所を教える。それが変わりさえすれば、その人は即よくなる。しかし、それは自分を変えなければいけないから、自分を変えることが嫌な人には嫌なのです。

それが嫌だし、また難しいから楽な道に進む。

逆にどうでもいいことは、表面的には楽しい訳です。

 

よくチャンスが無くてとか、運が無くてとか言いますが、そうではなくて、自分が自らそれを拒んでいる可能性が高い。

実際に受け入れることは、簡単に出来ることではありませんが、まずは拒んでいる自分に気づくことが必要で、それに気づかない事には始まりません。

また自分の今の状態を知ることは、とても大切なことです。

世の中から批判を受けそうなことなどを考えていると、それはダメだと思って、それを心の奥底に隠したりもしますが、隠した所であるものはあるのだから、自分は今こう言う事を考えているんだぁ、と知る事です。

それを誤魔化すと、全部誤魔化しになる。

子供にも、あなたの将来のために大学に行きなさいといった嘘を、平気で付く。

受け入れることが出来れば、どんなに楽かと思うのですけど、直ぐにはそういう訳にもいきませんので、まずは自分が心で思っていることに、まず気づくことです。

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